写真ペタペタ、 きまぐれ覚え書き

一定期間更新がないため広告を表示しています

0

    - - -
     
    memo.

    日経ビジネスonline 1923/4/20


     不機嫌は結果であるばかりでなく、原因でもある。病気の大半は、礼儀を忘れた結果だと考えてもよかろうと思う。
    ここで私が「礼儀」というのは身体に対する礼儀のことであり、それを忘れるとは、自らの身体に暴力を振るうことを意味する。
     
     獣医として日頃から動物をを観察していた父は、動物が人間とほぼ同じ条件の下に置かれ、同じくらい無理をさせられているにもかかわらず、
    病気がずっと少ないと言ってふしぎがっていた。これは、 動物は不機嫌にはならないからである。
    つまり、あれこれ考えて苛立ったり、うんざりしたり、憂鬱になったり、とうことがない。
     
     たとえば、眠りたいのに眠れず何を考えても苛々した経験は、誰しもあることだろう。この苛立が、まさに不眠症の原因になる。
    また悪い方へ悪い方へと考えて恐怖に駆られると、不吉な想像が心配を一層かき立て、病気はなかなか治らない。
    さらによく言われるとおり、階段を見下ろしただけで胸が締めつけられることもある。
    これは想像力のなせるわざであり、そのせいで、深く息を吸い込む必要があるまさにその瞬間に、息が止まってしまう。
     
     そして怒りは病気の一種と言うべきで、咳と変わらないものである。咳は、一種の苛立とみなすことさえできる。
    たしかに咳は身体の状態が原因で起こるのだが、すぐさま想像力が働き出し、うんと咳をすれば病気を出し切ってしまえるというばかげた考えから、
    咳を待ち構え、咳を起こさせようとする。
    ちょうど、掻けばかゆみがおさまると考えて、我と我が身をかきむしるようなものだ。
    たしかに動物も、血が出るまで体をひっかくことはある。
    だが考えただけで体をかきむしり、情念の力でもって心臓を刺激しあちこちで血流を波立たせられるのは、人間だけだ。
    敢えて言うなら、それは人間の危険な特権である。


     しかし情念はまだよかろう。どのみち逃れようとしても逃れられない。
    情念とは無縁の境地に達するには、名誉欲に引きずられまいとして名誉を求めるのをやめた賢者のように、教えの長い回り道を歩まなければならない。

     だが不機嫌はよくない。
    不機嫌は私たちを縛り、締め付け、窒息させる。
    ちょっと憂鬱になってきたら、それに応じてふるまわせるというたったそれだけのことで、もはや私たちを憂鬱から抜けられなくしてしまうのである。
    退屈な人は、退屈を維持するのに適した座り方、立ち方、話し方をする。
    苛立った人は、我が身を締め付けこわばらせる。気力を失った人は、筋肉を弛緩させる。
    この人に必要なのは、何か行動を起こして我と我が身を奮い立たせることなのに、逆に筋肉という筋肉をすっかり休ませてしまう。

     不機嫌に立ち向かうとき、知性は無力であり、ほとんど役に立たない。
    私の身体のうち自分自身で制御できるのは運動を伝える筋肉だけなのだから、すぐに姿勢を変え、適切に身体を動かすことだ。
    たとえば、ほほえむ。肩をすくめる。こうした動作は、心配事を軽くする効果があると言われている。
    この簡単な動作で、すぐさま内蔵の血液循環に変化が現れることに気づくだろう。
    人間は好きなときに伸びができるし、自分からあくびをすることもできる。
    これらは、心配事や短気に対する最善の運動である。

     ところが腹を立てている人は、無関心なふりをすることなど思いもよらない。
    また不眠症に悩む人は、眠ったふりをしてみることなど思いつかないだろう。
    不機嫌は不機嫌であること知らせるためだけに自ら表れ、いつまでも不機嫌を保つ。
    知恵が役に立たないのだから、礼儀作法に頼り、義務的なほほえみに助けを求めるのがよい。
    気分に左右されない人との付き合いが好まれるのは、こうした理由だからである。



    0

      0

        - - -
        Comment








        Trackback
        この記事のトラックバックURL: http://niena-pipi.jugem.jp/trackback/182
        << NEW | TOP | OLD>>